Morzart Symphony Orchestra
モーツァルト・シンフォニー・オーケストラ

マエストロ・ペンの  
  ある日のモーツァルト (1)

     マエストロ・ペンの

 4月にモーツアルトが出した聖シュテファン教会副楽長職への請願書に対して、5月に入りその申請を受理する旨の訓令書が発行されます。
 「ヴィーン市参事会は、モーツアルト氏の請願に対して、聖シュテファン教会における現楽長レオポルト・ホフマン氏を補佐する事を要望する。(中略)氏は上記楽長の職務を無給にて補佐し、楽長自らが出勤あたわぬ時には正式に代理を務め、かつこの楽長職が空席となる場合には、市参事会が良しとし命じ、かつ決定する俸給その他に甘んじる事。」            (ヴィーン市長、参事会 1971年5月9日)
 
 楽長が死去した際はそのポストを約束したかに見える内容ですが、市側としては好き勝手にはさせないから了承するようにとあらかじめ足かせを付けていると言えます。病気がちだったホフマン氏ですが、実際はモーツアルト自身よりも長生きしていますから、モーツアルトが生涯望み続けた楽長職は叶わなかった訳です。しかし現状より一歩でも進んだ事を彼は恐らく喜んだのではないでしょうか。この人事については、5月22日付けのプレスブルク新聞に次のように触れられています。
 「宮廷作曲家モーツアルトは、ヴィーン市参事会より、聖シュテファン大聖堂の、年俸2000グルデンが期待される楽長職を得た。」
 何か食い違いを感じる内容です。どのような事情からこうした記事が書かれたかは不明ですが、様々な憶測や期待や妨害や、そうしたモーツアルトを取り巻く人間関係を類推させます。一体何故モーツアルトはこうも公職に対して不遇なのでしょう。その生涯に渡り望み続けた楽長職は、父親レオポルトも手にできなかったものでしたが、徹底的に阻止され続けてきました。私はその裏に、貴族社会の父レオポルトに対する評価が関係している気がしてなりません。天才の我が子を広める為に、自分の仕事を最長4年間も放っておく父に対して良い評価が出る訳がありませんからね。その最も良い例は1773年、ミラノにおいて「ルーチョ・シッラ」初演後にフェルディナント大公に申し出た就職願いに対し、大公の母ヴィーンのマリア・テレジア皇后からの辛辣で悪意に満ちた手紙が書かれています。「世の中を乞食のように渡り歩く親子」とまで批判されている事は、もちろん死ぬまでモーツアルトの与り知らぬ事でした。
 では父の死後、何故うまくいかなかったのか。万人が認める彼の天才とそれをやっかむサリエリに代表される周囲の音楽家達。モーツアルト以外の人間達は、つまりうまく立ち回る術を知っていたと言えます。皇帝フランツ・ヨーゼフはモーツアルトの才能を高く評価していたものの、政治家としてはやはりバランス感覚を重要視せねばなりません。加えてモーツアルトは自分自身が天才を自覚していましたから、彼の言動の端々に周囲を反発させる自尊心があった事は容易に想像できます。彼の不遇はこの二つに集約されるでしょう。かつてパリを訪れた際、現地の有力者が父レオポルトに宛てた手紙には、「御子息は、才能は今の半分で良いから、うまく立ち回る術をもっと身につけねばならない」と書かれています。モーツアルトはあまりに天才で、あまりに世間知らずでした。そしてこうした不遇の苦悩が、彼の音楽を高みへと導いた事には疑う余地がありません。結局私達が愛するモーツアルトの音楽は、彼の不遇の代償と言えます。

 5月末には、バーデンの学校教師で合唱指揮者のアントン・シュトルに宛てて、妻コンスタンツェが湯治に訪れる為の住居を探して欲しい旨の手紙を書いています。後にモーツアルトはシュトルの為に、晩年屈指の名作と言われる小品「アヴェ・ヴェルム・コルプス」を書く事になるのですが、手紙には事細かに住居の条件を書き記しています。また手紙の冒頭には「最愛のシュトル!」に続いて「野暮(シュロル)な男になるんじゃないよ!」とふざけて書いており、最後には「これは生前僕が書いた最低の手紙だが、君にとっては大した物だろうよ。」と少々意味不明な追伸が書かれています。また改めて触れる事になりますが、妻コンスタンツェの湯治はただでさえ苦しいモーツアルトの家計を圧迫しているのは明らかです。彼は妻には最後まで金で苦労している姿を見せないようにしていたふしがあります。

 そしてこの月には、劇団を主催するエマヌエル・シカネーダーと生み出すモーツアルト最大の歌劇「魔笛」の作曲を開始したようです。
 彼の生涯は残す所後7ヶ月です。
 

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