Morzart Symphony Orchestra
モーツァルト・シンフォニー・オーケストラ

マエストロ・ペンの  
  ある日のモーツァルト (1)

   マエストロ・ペンの   

 10月は「魔笛」一色の月の観があります。9月30日に初演されたこの傑作オペラは、最初こそ評価は芳しくなかったものの(あまりに荒唐無稽な物語が理解されにくかったのでしょう)、日増しにその評価は高まっていきました。10月の1,7,8,9,13日に「魔笛」を見に劇場へ足を運んだ記録が残っています。「魔笛」は当初から毀誉褒貶のある作品でした。まずいきなり大蛇に襲われ逃げ惑う王子タミーノが舞台に現れますが、その姿は「日本の狩衣を着ている」事になっています。この時代に日本がどのような認識で捉えられていたか私の知識では定かではありませんが、見慣れぬ東洋の衣装をまとった主人公なんて奇異な印象を与えた事でしょう。三人の槍で武装した女達、鳥の羽を体中に付けた鳥刺しパパゲーノ、ヒステリックな高音域を駆使するエキセントリックな夜の女王、逆にかなり低音を要求されるザラストロ、それに仕える黒人の奴隷達、天を飛ぶ気球に乗った三人の子供達・・・こうして並べただけで、尋常では無い世界が繰り広げられる事が良く分かります。奇をてらった「今流行の」サイケドラマ。もしかしたらそんな印象すら与えたのかも知れません。何より台本の劣悪さは今日に至るまで指摘され続けていまして、よく逆転する物語だと言われます。娘をさらわれた被害者夜の女王、誘拐した加害者ザラストロという構図は、1幕半ばで逆転します。しかし真相は見た目と異なっていたなどという物語は無数にありますし、現代の私達にはそれほど問題とは感じません。つまりは見た目の奇天烈さと分かりにくい筋の展開が非難の的となったのだろうと思われます。
 しかしモーツアルトの音楽は最初から高く評価されていました。こちらは誰も非難の記録がありません。モーツアルトと共に「魔笛」を見たサリエリは、序曲から1曲毎に賛嘆の声を上げていた、とモーツアルトの手紙には書かれていますが、聴衆も日毎にその音楽に熱狂していったようです。バーデンに湯治に行った(10月初めに出かけていますが、日時は定かになっていません)妻コンスタンツェへの10月7〜8日の手紙にはこう書かれています。

「・・・・いつものように超満員だった。・・・沢山の曲がアンコールされたが、僕が一番嬉しかったのは(聴衆の)静かな賛同だ!」

 8〜9日付けの手紙には、パパゲーノ(座長のシカネーダーが演じていました)のグロッケンシュピールについての悪戯が嬉しそうに書かれています。このグロッケンシュピールは、夜の女王配下の三人の侍女がパパゲーノに与えた魔法の道具ですが(タミーノにはタイトルになった笛が与えられます)、現在では鈴が幾つも付いた道具が用いられるのが一般的ですが、初演当時はどうやら箱形の鍵盤が付いた楽器だったようです。パパゲーノが自分で舞台上で演奏しているように見えていますが、実際は舞台裏で他の人により演奏されています。今ではもっぱらチェレスタが使われますが、実際どんな楽器だったのかも今ひとつ判然としません。モーツアルトは8日の公演を見に行った際、舞台裏に上がり自分でそのグロッケンシュピールを演奏します。しかし舞台上のパパゲーノの予期せぬ所で音を出し、シカネーダーを大いに慌てさせます。シカネーダーは慌てて取り繕おうとしましたが、モーツアルトが勝手に鳴らすのでしまいには首から下げたグロッケンに「うるさい!」と怒鳴りつけ、観客から爆笑がわいたと言います。
「これで奴が自分で楽器を叩いているのではないと大勢の人が初めて分かったと思う。」
モーツアルトは楽しそうにそう書いていますが・・・叩く?バチで叩くようなものだったのでしょうか?楽譜を見ると鍵盤でなければ演奏できないような音楽が書かれているのですが・・・また謎が増えました。

 ともあれ、貴族の娯楽であったオペラは既に市民階級の娯楽へと変化していました。それだけ市民層の教育が進んだとも言えるでしょう。生活レベルの向上もあるかも知れません。モーツアルト以後の時代はオペラの成功失敗の評価を市民が下すようになります。「フィガロ」の時のように貴族を揶揄した物語は御法度なんて時代はもう過ぎ去ろうとしています。

 10月に書かれた三通の手紙(7〜8,8〜9,14〜15日付け)の手紙で現存するモーツアルトの書簡は終わりになります。それら三通の手紙は「魔笛」の話題と日常の生活の報告に終始していて、もうじきに体調を崩し死を迎える気配などどこにもありません。しかし16日にバーデンに迎えに来た夫を見て、別人のように痩せ細った姿にコンスタンツェは驚愕したと言います。死後ロビンス・ランドンの書いた著作にはコンスタンツェから聞いた話として、この頃プラーター公園を夫婦で散歩中に夫は、今書いている「レクイエム」は自分自身の為に書いている事、自分はもう長くない事、誰かに毒を盛られた事を口にしたと伝えています。この毒殺の顛末については12月の稿に回したいと思いますが、7月に不明の人物から依頼されていた「レクイエム」は、すぐに書き始められたものの「ティト」と「魔笛」で作曲が中断されたと長い間考えられてきましたが、使用している二種類の五線紙などの研究から、どうやら「魔笛」が一段落した10月から急いで書き始められたと見られています。また、同じく晩年の名作として名高いクラリネット協奏曲も、この月の最初の妻への手紙でようやくフィナーレが完成した事を伝えています。

 11月に入ると記録が乏しくなります。分かっているのは18日に、モーツアルトが関わっていたフリーメイソンの1グループ「ツア・ノイゲクレーテン・ホフヌング」の新礼拝堂の落成式において、正真正銘彼の完成させた最後の作品である「小カンタータ(フリーメーソン・カンタータ)K.623」の初演を自ら指揮しています。健康に大きな陰りを見せ始めていたものの、まだこの時期には指揮できるほどの体力は残っていたと見えますから、彼の死去する12月7日に向けて、本当に急速に病状が悪化した事が分かります。「小カンタータ」を初演したわずか二日後の20日にはとうとう病床に伏してしまいます。彼の主治医はトーマス・フランツ・クロセット博士でしたが、悪化に伴い博士はマティーアス・エードラー・フォン・ザラーバ博士にも治療を依頼します。しかし20日以降彼が外出した記録は残っていません。彼の容態は一時期小康状態を得ますが、病床を離れる事はなかったようです。

 いよいよ死の時を迎えます。彼の最後の数日間は妻とその妹ゾフィー・ヴェーバーがほとんど付きっきりだったようです。ゾフィーはその死の瞬間前後の貴重な証言を残していますが、それは次回にご紹介しましょう。

 モーツアルトの命は、後一週間となりました。 


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