Morzart Symphony Orchestra
モーツァルト・シンフォニー・オーケストラ

マエストロ・ペンの  
  ある日のモーツァルト (1)

     マエストロ・ペンの

 記録の乏しかった5月までと異なり、6月以降は様々な動向の記録が存在しています。身重であった妻コンスタンツェ(7月末に第6子を出産)が、ヴィーン近郊のバーデンに湯治に出かけたため、ヴォルフガング自身による手紙が幾つも書かれた為でした。コンスタンツェは6月4日に息子カールと共にバーデンに向かっています。ヴィーンとバーデンは、現在は市電市バスでつながれた言わばヴィーン市の一部ですが、当時は徒歩で5時間、馬車(必ず一カ所で乗り換え)で2〜3時間であったようです。バーデンはベートーヴェンに縁ある地でもありますから、訪れた方も多いことでしょう。
 モーツアルト自身も妻の後を追い、8日〜10日、13日〜23日の二回バーデンを訪れていますが、ヴィーンから妻に宛てて7〜8通の手紙(内1通は日付が不明)が書かれています。近距離ですから手紙もすぐに届いたのでしょう、まるで日記のように連日(5,6,7,11,12日等)書いており、妻からも様子を知らせる返事を書くように要求しています。内容については自分の行動、友人達の動向、妻への気遣いと夥しい注意書きがその全てです。特に妻への細かな指示を見ると、コンスタンツェという人物がかなり危うい社交家であったように感じさせます。唯一日付不明の短い手紙にはこうあります。
「・・・お願いだからカジノには行かないでおくれ。第1にあの連中(僕の言う事は分かるね?)、次に(どのみちその身体では踊れないだろう。とすると眺めているかい?)。そういう事はどのみち御亭主が付いているときのほうがいいよ。・・・・」

 7日付けの手紙には、モーツアルトの残された半年間に無くてはならない二人の人物の名前が記されています。ジュスマイヤーとシカネーダーです。
 フランツ・クサーヴァー・ジュスマイヤーはこの時25歳、この3年前からヴィーンに定住し前年の1790年にモーツアルトに出会っています。弟子として知られたジュスマイヤーですが、むしろ助手としての色合いが濃かったようで、晩年の大作「皇帝ティトの慈悲」のレチタティーヴォ部分は彼の作であると言われていますが、それを証明する資料は残っていません。またモーツアルトの死後、未完成であった「レクイエム」を補筆完成させた事でも知られていますが、これに関しては12月に触れる事にしましょう。
 ジュスマイヤーはコンスタンツェの世話をする為に長い時間バーデンに逗留しており、その為にモーツアルトの最後の子供(その名もフランツ・クサーヴァー)はジュスマイヤーの子供ではないかとの、週刊誌的な憶測も飛び交いました。7日付けの手紙ではジュスマイヤーと昼食を取ったとあり、月末の手紙には妻の元にいるジュスマイヤーについて触れていますから、8日にバーテーンに向かったモーツアルトに同行しそのまま滞在し続けたのかも知れません。

 エマヌエル・シカネーダーはこの後組んで名作「魔笛」を世に問う劇団座長ですが、他にも台本作者、興行師、俳優、歌手、バレエダンサー、作曲家等々、幅広い肩書きを持ちます。これだけで何かうさん臭い匂いを感じますね。既にモーツアルトの「後宮からの誘拐」を手がけていますから、二人は旧知の間柄と言って良いかも知れません。モーツアルトはこの6月末には「魔笛」第1幕のオーケストレーションを進めていますから、二人の間で「魔笛」に関するやり取りは進んでいたと思われます。

 一度バーデンから戻った11日夜、モーツアルトは当時ヒット作としていた新作のオペラ、ヴェンツェル・ミュラー作曲の「ファゴット奏者カスパル、あるいは魔法のツィター」を見に行きます。12日付の妻への手紙には「大騒ぎの話題作だが、中身は空虚」だとだけしか触れられていません。しかし今進行中の「魔笛」とも相通じるような物語のヒットオペラに、モーツアルト自身も大いに刺激を受けたものと見られています。14日にはベーズレの愛称で知られたいとこのアンナ・テ−クラ・モーツアルトの父親フランツ・アーロイスがアウグスブルクで死去しています。
 この月二度目のバーデン訪問では、晩年屈指の名作として名高い小品「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が書かれています。モーツアルト自身が6月18日と記録するこの合唱曲は、バーデンを中心に活動していた友人で指揮者のアントーン・シュトルの為に作曲されています。静謐という言葉が最も相応しいこの美しい小品は、晩年のモーツアルトの至った高みをよく伝えてくれます。わずか46小節3分足らずのこの音楽は豊かな調性感に満ち、巧みでさりげない転調が誰にもなし得なかったような巧みさで用いられています。

 この月に書かれた手紙は他に、フリーメーソンの盟友プフベルクへの借金申し込みの手紙があります。いくらかのお金を、という要望に対しプフベルクは25フローリンの金を送金しています。モーツアルトはその手紙の中で、数日中には2000フローリンの金を受け取るので、すぐに返済できるでしょう、と書いているが、この2000フローリンをどこから受け取るかは不明で、もちろんの事現実化はしません。25フローリンの送金を受けた後書かれた日付不明の手紙にも、自作の出版による収入について安易な予測をしたためていますが、もちろんこちらも実現しません。
 盟友は無条件で助けねばならないのがフリーメーソンの規約の一つでもありますから、度重なる借金依頼の手紙に(これ以後も)プフベルクはモーツアルトへの送金を続けるのですが、希望額と送金額は徐々に開いていきます。さぞやウンザリしてモーツアルトの顔も見たくないであろう、と思いきや、二人は度々共に食事をしたりなど顔を合わせています。晩年の経済苦に喘ぐ我らがモーツアルトを救った人物の一人として、私達は名作誕生の感謝の幾ばくかを、このプフベルク氏に捧げねばなりません。

モーツアルトの生涯は、残す所後6ヶ月です。
 

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