Morzart Symphony Orchestra
モーツァルト・シンフォニー・オーケストラ

マエストロ・ペンの  
  ある日のモーツァルト (1)

     マエストロ・ペンの

 モーツアルトは妻と弟子ジュスマイヤーを伴ってプラハにいます。レオポルト二世がボヘミア国王に就任するその戴冠記念のオペラ、「皇帝ティトの慈悲」の初演の為です。8月28日にプラハに到着したモーツアルト一行は、急ピッチで完成を目指していますが、9月2日にはモーツアルト自身の指揮で「ドン・ジョヴァンニ」が上演されています。プラハは世界で最も早くモーツアルトを受け入れ賞賛した都市である事を今でも誇りにしていますが、モーツアルトを八方塞がりに追い込んだヴィーンと違い、ここでは忘れずモーツアルトを愛していました。9月5日にようやく「ティト」が完成します。依頼されたのが7月中旬でしたから、2ヶ月をかけずに完成させた事になります。しかも初演は翌6日ですから、まるで綱渡りのような日程です。
 さてレオポルト二世は、先の皇帝ヨーゼフ二世崩御の後1790年に神聖ローマ帝国皇帝としてフランクフルトにて戴冠し、翌91年にはボヘミア王としての戴冠式をする事が決まっていました。その戴冠記念オペラは、ボヘミアを統治していた貴族による「ボヘミア諸階級(シュテンデ)」が、地元の興行師ドメニコ・グゥワルダゾーニに制作を依頼していました。グゥワルダゾーニは最初作曲をヴィーン宮廷楽長であるアントニオ・サリエリに依頼しますが、サリエリはこれを断らざるを得ない状況でした。というのもかのヨーゼフ・ハイドンがロンドンに旅立ってしまったために、エステルハージ侯の仕事をサリエリの弟子であるヨーゼフ・ヴァイクルが引き継ぐ事になり、ヴァイクルがやるはずだったヴィーンでの仕事を師サリエリがやらねばならなかった為です。「ボヘミア諸階級」がグゥワルダゾーニと交わした契約は7月8日。既に決まっている戴冠式まで2ヶ月を切っていてかなり切羽詰まった状況でした。グゥワルダゾーニは既に半世紀以上昔のメタスタージョの台本「ティト」を選んでいました。そして出演歌手を探す為にイタリアへ赴く途中、ヴィーンでモーツアルトに作曲を依頼したのでした。以上が作曲に至る経緯としてしられているものですが、違う経緯の推測もあります。
 それは遡ること2年前、1789年4月にプラハを訪れたモーツアルトは、この時グゥワルダゾーニに出会っており、その時この「ティト」の作曲を(皇帝戴冠式とは関係無く)モーツアルトに既に依頼していたのではないか、というものです。この短期間での作品の完成を考えればそれも納得できます。つまりモーツアルトの中にはこの作品のイメージが既にあった、という事です。メタスタージョの古めかしい台本は、ドレスデンの宮廷詩人カテリーノ・マッツォラが改訂しましたが、グゥワルダゾーニが歌手を選定しなければ作曲に取りかかれませんから、実際モーツアルトが作曲に取りかかったのは7月後半であった可能性はあります。モーツアルトはマッツォラと台本を切り詰める作業をしつつ(元3幕だった話を2幕に短縮しています)、彼の台本仕上がりを順に待ちながらも、メタスタージョの台本を利用しつつ作曲を進めていたと思われます。
 7月半ばから8月半ばにかけて主な音楽が作曲され、グゥワルダゾーニが帰郷した8月後半からようやくアリアが書かれ始めます。ヴィーンからプラハに向かう馬車の中でも仕事は続けられました。一説によるとレチタティーヴォ(セッコ)は全て弟子のジュスマイヤーが作曲したとも言われていますが、モーツアルト自身はおろかジュスマイヤーの自筆譜も現存していないため確証はありません。しかし最初の伝記作者ニッセンはそう伝えています。またセッコの完成度があまり高くない事からもその説は支持されています。プラハ到着後、ソリストと会い次々にアリア等が、そして最後は序曲が作曲されました。
 全てが大急ぎの新作オペラだったが、評価は次の通りでした。
・ ツィンツェンドルフ伯の日誌
 「五時に旧市街の劇場に行く・・・皇帝御一行は七時半過ぎに御到着。「皇帝ティトの慈悲」は誠に退屈極まりない芝居であった。」
・ 皇妃マリーア・ルイーゼの評
 「お粗末な出来映えのドイツ物。」
・ アルブレヒトの「プラハ戴冠日誌」
 「・・・作曲は著名なモーツアルトによるもので、十分な時間が無く、しかも最後の部分を仕上げねば成らない途中で病を得たにもかかわらず、この作品は彼の名誉となった。」

 10日には「ティト」の二度目の公演があった可能性があるものの、全体としては大した評価も得ない初演となったようです。急いで仕上げねば成らず、ドラマとしての密度を推敲できなかった事もあったでしょうが、何よりこうした真面目な内容のオペラ・セリアは既に時代遅れとなっていました。ドラマ性というものにあれ程うるさかったモーツアルトが、いくら時間が無いとは言えこのレベルの作品に甘んじてしまったのは、やはり功名心と金銭欲が勝ったのではないか。いささか厳しすぎるとは言え私はそう思います。
 モーツアルトがいつプラハを発ったかは定かではありませんが、12日頃にはヴィーンに戻ってきていました。この旅でモーツアルトは200ドゥカーデン(900グルデン)を得ています。ヴィーンに戻ったモーツアルトは中断していた「魔笛」の作曲に取り組みます。28日、序曲と第2幕冒頭の「僧侶の行進曲」を書き終えて「魔笛」は完成されます。そして二日後の30日ヴィーンのヴィーデンにあるフライハウス劇場で初演されました。モーツアルト自身が指揮をし、ジュスマイヤーがその譜めくり、義姉のヨーゼファ・ホーファーが夜の女王を歌いました。「ティト」とは反対にモーツアルト最後のオペラは大喝采を浴びるのですが、それについては来月触れたいと思います。ちなみにこの日(30日)プラハでは「ティト」が上演され大変な喝采を受けたと記録されています。「ティト」はこれがモーツアルト生存中の最後の公演となりました。

 モーツアルトの命はあと僅か3ヶ月となりました。

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