Morzart Symphony Orchestra
モーツァルト・シンフォニー・オーケストラ

マエストロ・ペンの  
  ある日のモーツァルト (1)

     マエストロ・ペンの

 モーツアルトは恐らくは猛烈な勢いで依頼のあった「皇帝ティトの慈悲」の作曲に取り組んでいます。オーストリー皇帝ヨーゼフ二世のボヘミア国王戴冠を記念しての作品でした。8月は後半にこの作品の初演の為にプラハに赴く以外は、目立った動きをしてはいません。
 モーツアルトはその生涯に21作(未完も含む)のオペラを書いています。オペラはバロック以前の時代から大きく二つのジャンルに分かれます。一つは歴史劇や宗教劇などのいたって真面目な内容のオペラ・セリア(正歌劇)、もう一つは笑いの要素の強いオペラ・ブッファです。セリアがもちろん主流だったのですが、これは観客層の大半が貴族だった事を意味しています。イタリア人音楽家がヨーロッパ中を席巻していたこの時代、オペラと言えばイタリア語でした。今でこそヨーロッパの主要歌劇場が字幕システムを設置していますが、イタリア以外の国で流暢にイタリア語が理解されていた訳ではありません。貴族とておなじ事。しかしイタリア語を解するのは当たり前とされていましたから、みんなそれ程理解していなくても、さも理解したような顔をして鑑賞していた・・・と私は意地悪く考えています。
 しかしモーツアルトの時代から少しずつその様相が変わります。つまり民衆が歌劇場へと足を運び出したのです。貴族階級の権力の斜陽、庶民階級の台頭、民衆の経済的な発展等々、様々な時代背景もある事でしょう。ともあれ民衆には縁のない深刻なドラマを見せても退屈なだけ。いつの世も民衆はお笑いを求めます。苦しい日常生活を忘れさせる一時を求めたと言えるかも知れません。モーツアルトにとってもオペラは次第にブッファが主流になっていきます。セリアの古めかしい厳格さはもう時代遅れだったのです。モーツアルトの代表作とされる五大オペラ(「後宮からの誘拐」「フィガロの結婚」「ドン・ジョヴァンニ」「コジ・ファン・トゥッテ」「魔笛」)のどれもがセリアでは無いのを見ても、モーツアルトの適正はブッファに向いているのが明らかです。
 何せ面白好きでお人好しなモーツアルトですからね、笑えるオペラは誰よりも本人が楽しんで書いていたでしょう。もう一つ触れねばならないのは言語の問題です。21作のオペラの中で母国語のドイツ語をテキストにしているのは3作しかありません。若き日の「バスティアンとバスティエンヌ」、ヴィーン飛び出し勢いで結婚までした頃の「後宮からの誘拐」、そして晩年の「魔笛」。テキストをドイツ語にするというだけでサリエリはじめ宮中のイタリア人音楽家達は眉をしかめたに違いありません。確かに母音の明快なイタリア語は歌に最も適した言語です。しかし内容の分からない外国語のオペラを民衆が喜んではいなかったでしょう。無骨なドイツ語は確かに歌に載せても優雅ではありません。しかし私はこの変化に、オペラに求められるものの時代変化も感じます。理解に苦労の無い母国語のオペラなら、奥深い所まで内容を掘り下げる事ができたでしょう。ドイツ語圏の人々持つ哲学嗜好、厳格好き、がいつしかヴァーグナーの世界に繋がっていったのは論を待たないものと思います。

 そんな時代の変化の中でモーツアルトが取り組んだのはコテコテのセリア「ティト」でした。依頼から9月6日に初演されるまで約2ヶ月弱、モーツアルトの天才を持ってしても内容を磨き上げるには余りに短い時間でした。その初演がどのようなものであったか、それは来月触れましょう。
 モーツアルトは8月中旬に妻コンスタンツェと弟子のジュスマイヤーを伴ってプラハに旅立ち、28日に到着しています。一行は市内のホテルに滞在しますが、郊外にあるベルトラムカにも滞在したようです。一行が到着した翌日には皇帝レオポルト二世がプラハに到着しています。皇帝の従者にはサリエリをはじめとする宮廷イタリア人音楽家7名が含まれています。

モーツアルトの命は後4ヶ月です。

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